各界からのメッセージ 〜憲法9条を守りたい〜       

 New 向江チヅ子さん  向江昇さん  高村順久さん  高崎ゆきさん  天木直人さん   木藤なおゆきさん



戦争の悲惨さ、生命の大切さを、訴え続けたい

 向 江 昇
さん
    元泉佐野市長、
   「九条の会・泉佐野」よびかけ人

憲法9条は平和外交の原点だ

 天 木 直 人
さん 
     元駐レバノン大使
     イラク戦争支持に抗議して辞職


 昭和20年8月敗戦。当時11歳、小学5年生の私は、台湾台中市にいた。2ヶ月前までは、軍港のある基隆近くの町に住んでいた。沖縄開戦の1年前は、米軍は台湾攻撃に入り、毎日、B25機の空襲で防空壕住まい。通学途中、グラマン戦闘機の機銃攻撃を受け、夢中で溝に飛び込み、九死に一生を得たが、学友数人は死亡した。
 昭和20年、父が病死。同年8月敗戦。日本に引き揚げのため、収容所へ。帰国船を待つこと6ヶ月。アメリカ貨物船で10日間、21年4月和歌山県田辺港に帰国。船中、マラリア等の病死者も続出。毛布に包み、夕暮れ船尾から海中へ。汽笛がボーッと鳴る。今でも耳に残っている。
 母の生家、羽倉崎にたどりついたが、当時の食糧不足は深刻で、母と5人の子どもでは生活ができない。口べらしのため長男の私は、父の故郷の鹿児島へ。10年間、家族と会うことがなかった。
 戦争が普通の市民にどれだけの悲惨を強いるのか、戦争体験者が少なくなっていく中で、孫子に生命の大切さと不戦を訴え続けていきたい。
         (「九条の会・泉佐野」No.1から転載)
 米国のイラク攻撃は歴史に残る誤りであった。その米国のイラク攻撃を正しいと世界に公言し、平和憲法を踏みにじって自衛隊をイラクへ派遣した小泉首相に、私は異を唱えた。その結果、私は外務省を去ることになった。しかし私に悔いはない。外務省を去ってはじめて私は憲法9条の本当の尊さを知ることになったのだ。
 ブッシュ大統領の米国は戦争国家になり下がってしまった。戦争国家の唯一、最大の目的は戦争に勝つ事だ。その為にはあらゆることを犠牲にする。自由も、人権も、そして人命さえ、戦争に勝つ為に犠牲にされる。
 そんな戦争国家の米国と同盟関係を強めていく事が正しい外交であるはずがない。それは日本を米国の戦争に加担させ、安全であるはずの日本を危うくするのだ。
 戦争の惨禍を経験した我々は再びあのような過ちを繰り返さない事を決意し、紛争を解決する手段としての軍事力を永久に放棄することを世界に誓った。
 米国の軍事力が世界を対立的な方向にどんどんと進めようとしている今こそ、日本の平和憲法が世界に輝いて見えるのだ。平和憲法こそ日本が世界に誇る最大の安全保障策なのだ。
その憲法9条の精神が小泉首相の手で今まさに捨てられようとしている。政治家もこれを許そうとしている。これを国民の手で食い止める、それこそが今我々に緊急に求められている。


9条は 撃たせない賢さ

  高 崎 ゆ き
さん
   
       高校生時代から戦争放棄パレード
       などに取り組む
「普通の国になる」
 とはどういうことか

 高 村 順 久
さん 
      弁護士
      「大阪弁護士9条の会」事務局長


 攻撃されたから攻撃しかえす。攻撃されそうだから先に攻撃する。
 今までこんな大義づけによって戦争は正当化され、行われてきました。
 憲法9条は、武器を持たないことによって戦争が起こるプロセスをつぶ していく、つまり「相手に撃たせない賢さ」を身につける新しい考え方だと私は思います。
 「憲法」というと、ちょっと難しいもののように聞こえがちだけど、じつは私たちの日常に深く関わっているものなんだと最近よく感じます。
 なぜなら、戦争が起こってまず一番初めに壊されるのは私たちのような市民の日常であるから。
 9条を大切にすることは、今目の前にいる家族や友達や恋人、、自分や大切な人の未来を守ること!
 そんな9条の素晴らしさ、大切さを日常の中で地道に広めていきたいと思います♪
 憲法改正問題の中心は言うまでもなく第9条です。第9条を改正して「普通の国になろう」などという卑怯なプロパカンダがなされています。「普通の国になる」ということは、「軍隊をもって他国と戦争のできる国にしよう」ということであり、「軍事同盟を結んで戦争をしよう」ということでもあります。
 つい最近も、北朝鮮からミサイルが発射されれば、10分以内に日本に届く、10分以内で確実に迎撃するのは難しいから、ミサイルに燃料を注入しようとしていることがわかれば、先制攻撃をすることができるような法律を作る必要があるというような議論がされています。
 そのような、相手がいつ攻撃してくるかわからないから、先制攻撃の準備をして常に他国を敵として監視しているより、「日本は戦争はしない国だ」と宣言してそれを実行する方が、よほど戦争の危険から遠ざかることは自明です。
 私事ですが、私は昭和19年9月の生まれですが、私の父は海軍の下士官でその年の5月には太平洋上で戦死しております。私が生まれた昭和19年を挟んだ18年、20年生まれは、当然ながら、親父さんが戦死したという人が大変多いです。戦争ほど多くの犠牲が出る国家行為はありません。
「普通の国」などというまやかしの言葉に踊らされて9条を改正するようなことを許してはなりません。 皆様と力を合わせて運動を続けたいと思います。
憲法漫談
「地球のすみずみに憲法の花を」公演100回に当たって


木 藤 な お ゆ き
さん 
  笑工房 漫談家。 全国で「憲法漫談」を公演中

 あれは憲法漫談 「地球のすみずみに憲法の花を」 ネタ下ろし、まだ日の浅かった静岡公演でした。観客の女性が感極まって突然泣き出したのです。憲法前文の暗唱が半ばのときでした。
 感極まった観客が泣き出すなんて、お笑いの世界に入って20数年、一度もありません。それだけに 「え・・・、何・・・、ちょと、ちょっと・・・・」。 頭が真っ白になって立ち往生です。それでもなんとか無事に終え主催者から喜んでいただきました。
 あれから1年。06年1月25日の千葉公演でこの漫談も100回目を迎えます。思い出せば04年春のことでした。笑工房の小林代表から 「9条改悪反対の作品を作る。ついては9条と憲法前文を年明けまでに完全に暗記するように。できなければ、これは落語家にやらせる」。
 こんな電話が入り、年末年始は必死でした。しかし心の奥で「こんな堅いネタが笑いになる?仕事になる?」。正直言って信じてはいませんでした。
 ところが、年明けから途切れる事なく出演依頼が入るのです。そしてどこの会場でも笑うところは笑って下さり、訴えには 「フン、フン」 とうなずいて下さる。憲法前文を謳いあげ 「皆さん、地球のすみずみに憲法の花を」 と舞台を下りる私の背には会場が割れんばかりの拍手を下さるのです。 
 「9条改悪でどんな社会になるか、よく分かった」 「勇気づけられました。頑張ります」 こんな感想文が、山のように届いています。礼状や感想文をいただく事のないお笑い芸人にとって、こんな嬉しいことはありません。これらに目を通すにつけ、私の漫談が人間の理想を具現化した日本国憲法の改悪を企む者たちと闘っている人々に、少しは 「お役に立っている」 との実感と責任の重さをひしひし感じます。
 これからも、もっともっと面白く的を射た作品に仕上げ、多くの皆さんに喜んでもらえるように努めます。そしてたとえ私の声がかれ血を吐いても 「地球のすみずみに憲法の花を」 と、憲法改悪の企みを完全に阻止するまで訴え続けていく決意です。
 (問い合わせは 笑工房 電話06−6308−1780)



一老女の歩いて来た道  〜敗戦から日本に帰るまで〜


     向 江 チ ヅ 子 さん (大阪府寝屋川市萱島在住)

はじめに
 一九四五年八月十五日、大日本帝国が連合軍に無条件降伏した事でアジア太平洋戦争は終わりました。明日からは戦争のない平和な日々が来るはずでした。
 あの日からもう六十年の年月が過ぎました。しかし、私には大きな鍵を掛けて胸の引き出しの奥に仕舞い込んだものがありました。六十年の間に一度ちょっとだけ鍵を開けかけたことがありますが、どうしても引き出しを開けることが出来ず、又しっかりと鍵を掛けてしまいました。
私は時々夢でうなされ泣いている事がありました。主人にどうしたのと起こされても、ただ怖い夢をみたと答えるだけで、夢の内容を話すことが出来ませんでした。夢はいつも同じものでした。
 殺人でも十五年経てば時効です。でも鍵を掛けた私の胸の奥の引き出しは、二十年経っても三十年経っても時効を迎える事は出来ませんでした。
今憲法第九条が大きな問題になっています。新憲法が発布されたのは私が新制中学校一年生の時でした。その時担任の先生は「この新しい憲法には第九条に日本は軍隊を持たない、二度と戦争はしないと書かれています。日本は戦争のない平和な国になるのです。もう空襲もありません。よその国を攻めてその国を植民地にするような事は絶対にしないと云うことを憲法で決めたのです。この第九条をみんなでしっかり守っていくのは、君達の義務です」と云うような事を先生は熱心に繰り返し繰り返し話された事を思い出したのです。私は胸の中の引き出しの鍵を自分で開けて自分で時効を迎えなければ……。と強く思うようになっていました。
 今年三月に主人宛に書類が送られてきました。それは漢詩を作っている方々の作品集でした。漢詩を読み下すことは出来ない私ですが、平和を守ろうとか、九条を守ろうとか、詩というより今の運動を反映したまるでスローガンのように勇ましいものばかりでした。私はなぜかふと昔覚えた「死んだ女の子」という歌を思い出しました。その歌詞には勇ましい言葉はなにもありません。ただ原爆で死んだ女の子のことが書かれているだけです。この歌を長い間歌っていなかったので私は所々しか思い出す事ができません。なぜかどうしても思い出したいと思い、誰か知っている人はいないか、教えてほしいという気持ちが日に日に強くなっていき苛々と落ち着きがなくなりました。色々考えた末に元市会議員だった岩本よし子さんの事を思い出しました。岩本さんは元関西合唱団の団員でした。もしかして岩本さんに聞けば歌詞が分かるのではないかと思った私は数年ぶりに岩本さんに電話しました。岩本さんは快く教えてくださいました。私は嬉しくて嬉しくて、いつもバッグの中に入れて持ち歩き歌詞を覚えました。曲もなんとか思い出すことが出来ました。気がつくといつも口ずさんでいるのですが、いつのまにか涙が出て止まらなくなるのです。なぜこの歌を歌うと涙が出るのか不思議でした。歳のせいだけではなかった事に気づきました。それは私の胸の中の悲しみと女の子の悲しみがかさなりあっていたのです。
 私はこの手記を主人に頼んでメールで東京の息子に送って貰いました。息子からの返事に、広島出身の青年の話では『死んだ女の子』のうたは、今でも小学校の卒業式でうたわれているとの事です。広島では戦争のことを、次の世代へ伝えていかなければならないと言う思いがいろいろな形で強く息づいているのだそうです。
 戦後六十年経ってやっと鍵を開け胸の引き出しを全部引き出す決心ができました。主人にもはじめてすべて話すことが出来ました。胸の奥の引き出しの中がやっと空っぽになりました。
 当時十一才の少女がこの六十年をどんな思い出生きてきたのか、一九四五年八月十五日以降に何があったのか。私が体験したようなこと、いいえもっと苦しく辛い悲しい経験をされた方は日本中に大勢おられることと思います。でもその方々の多くは既に亡くなられているでしょう。母も姉も叔母達も死にました。私も何時死ぬかわかりません。また認知症になってすべてを忘れてしまう時が来るかも知れません。そうなる前に戦争の恐ろしさ、残酷さ、悲惨な非人間性、私自身が体験した事を書き残しておきたいと思うようになりました。この文章を読まれた方はぜひこの事を語り継いで頂きたいと思います。
 私は着のみ着のままで日本に引き揚げて来て、五年経ってもどん底の生活でした。
戦争に行った義兄はまだ復員していませんでした。数年後戦死の公報が届きましたが白木の箱の中にはただ「田中武人の霊」と書かれた札が入っているだけでした。
 生活を助けるために高校進学を諦めて就職した私です。難しいことも難しい言葉もしりません。今は普通の老主婦です。だから私は自分の言葉でしか書くことができません。ただ戦争を憎む私の気持ちを伝えたいと思うだけです。

十一才までの想い出
 当時私は朝鮮(現在の韓国)の慶尚南道密陽郡下南面守山という小さな農村に住んでいました。私の家は農家で大地主でした。垣根の外に出ると見渡す限りの水田がひろがっていて、全部家の所有地でした。その中に用水路があり田植えが近くなると、冬は水がない川の水門が開けられ水が流されます。水門を開ける話を聞くと、従兄弟たちと水がくるのを堤防の上で待っていました。やがて真っ白なしぶきをあげて押し寄せてくる水が見えてきます。水は段々多く早くなります。私たちは、水の流れに負けまいと堤防の上を懸命に走ります。でも水の流れの方が早く途中で追い越され堤防の端に私たちがついた時は、大きな川に滝のように流れ落ちています。私たちは「また来年ね」といって流れ落ちる水に別れを告げます。その堤防は祖父や父母がこの土地を日本の政府から買った時(外国なのに日本の政府が売っていたと母はいうのです)、この土地に水田を作ろうと用水路をつくったのだそうです。少女の私にはとてもよい遊び場でした。山羊や犬や小鳥たちが友だちでした。私が町に行く時はかならず誰かと一緒でした。町に出るといろいろなお店があり、欲しい物が沢山ありました。欲しい物をいうとお店の人はすぐ渡して呉れました。私はお金を払ったことはありませんでした。あとで支払われたかどうか、私は知りません。町にいけば欲しい物は何でも自分のものになりました。私は日本に帰ってくるまで自分でお金を使ったことがありませんでした。私はお金の値打ちを知らないまま育ちました。
 私はこの手記を書いたことでいろいろな疑問が出てきました。
 韓国の中学校で使われている「近現代史」という歴史の教科書を読みました。
 日本帝国の朝鮮に対する植民地支配がどんなものであったのかを少しだけ知ることができました。私は、私たちのその生活が朝鮮民族の大きな犠牲のうえに成り立っていたことなど何も考えた事はなく、当たり前の生活だと思っていたのです。
 皆さんは日清・日露戦争というのをご存じだと思いますが、この戦争は朝鮮半島を日本の植民地にするための戦争だったのです。そして明治四三年に朝鮮半島を日本の植民地として併合したのです。
 日本政府は朝鮮の仁たちに「土地調査」という名目で土地所有申告書を書かせたのです。でもその書類は殆どの人が書くことができないようなものだったようです。多くの人たちが提出することが出来ずまた提出した人たちも書類に不備があるといって受け付けてもらえなかったのです。文句をいうと憲兵や警察・軍隊などの力で有無をいわさず所有者なしとして取り上げられました。こうして取り上げた土地は八百八十万一千五百十三町歩という厖大だものでした。それを朝鮮総督府という日本の植民地統治機関のものにしたのです。そしてその中の一部を日本の東洋拓殖株式会社にただ同然で払い下げたのです。
 私の家族は、大正時代の初め頃に植民地朝鮮に移民してその土地を買ったのだと思います。

終戦の日のこと
 戦争が終わったその日の午後、私たちは学校に集合させられました。私は国民学校の五年生でした。運動場に集められた私たちは整列させられ、校長先生が白い手袋をはめた手で奉安殿から「教育勅語」の巻物を取り出し、恭しく一礼の後、朗読されました。そして「皆さん戦争は終わりました。日本は負けました。皆さんはお家に帰りなさい」といわれ、どういうことか分からないままに、私は家に帰りました。
 家につくと、大勢の人が集まっていました。私の家族と父の二人の妹の家族、そして朝鮮人の使用人、小作人の人たちでした。家にはラジオなど無かったのに、敗戦のことが話題になっていました。小さい私はさっさと自分の部屋に行き好きな本を読んでいました。それから何日過ぎたのか覚えていないのですが、ある日母と姉が三枚ほどあった日の丸の旗を部屋に拡げ、泣きながら黒い墨で朝鮮の旗に作り変えていました。「何しているの」と聞く私に母は「こうして門に掲げてないとここに居れないのよ」といいましたが、私には何の事かわかりませんでした。
二・三日たったある夜、多数の軍靴の音が響き雨戸や玄関の戸を激しく叩く音がしました。警察は一番先に逃げてしまい、無法地帯と化していた町では日本人があちこちで、朝鮮人に井戸に投げ込まれ、上から竹槍で突き殺されたという話を聞いていた大人たちは、いよいよ来たと恐怖におののき、子供達は押し入れに隠されました。私は従兄弟達と一緒に真っ暗な押し入れの中で震えていました。どのくらい時間が過ぎたのか、やっと襖が開けられ出ると、家の中は静かでした。軍靴の主たちは家を見つけて食糧を要求しただけの日本兵だったそうです。
 明くる日私たちは、学校に避難することになり、三家族十四人は夜にまぎれて着のみ着のまま、こっそり家を抜け出しました。学校に着いて教室に入り込み、その晩はそのまま教室で寝ました。夜が明ける頃窓ガラスが割れる音で目が覚めました。私たちが教室にいることがどうして分かったのか、窓の外には朝鮮人の顔が見えました。大人も子供も居ました。皆手に石を持っていました。教室の中に石が投げ込まれ、私たちは石に当たらないよう机のかげに身をよせました。小さい従兄弟達は泣き出し、生まれて三ヶ月も経っていない赤ん坊は特に激しく泣いていました。しばらくして石が飛んで来なくなり、私たちは、恐る恐る教室を出て、学校の敷地内にある先生の宿舎になっていた建物に行きました。 朝鮮人による嫌がらせもなくなり、私には平和な数日が過ぎました。
 しかし、町では毎日日本人が殺され、一家全員が殺された家もあったそうです。
 突然、夜中にサイレンが不気味に響き渡り私の平和な日は終わりました。大人達は日本人全員を殺す為の合図ではないか、と怯えました。若い先生が様子を見に一人で町へ行くことになりましたが、いつまで経っても帰ってこられません。先生も殺されたのだと皆が思いました。私たちは宿舎の外に出され、学校の築山の後ろに座らされました。子供達は前に正座し、大人は後ろに立っていました。
 私たちはポケットの中の物を膝の前にきちんと並べさせられ、子供達の首には紐がかけられました。私たちは目をつむってじっと合掌していました。朝鮮人に殺されるくらいなら、親が殺して自分たちも死ぬとの親達の覚悟でした。日本人としてのプライドだったのでしょうが、それだけ朝鮮人を見下していたのです。同じ人間なのに……。
 どの位時間が過ぎたのでしょうか。殺されたとあきらめていた先生が無事に帰ってこられたのです。先生の話によると、あのサイレンは無法地帯と化していた町を、なんとか自分たちの手で平和な町にしょうと若者を集めるための合図だったそうで、町の治安も少しずつよくなるだろうとのことでした。私たちは先生の無事を喜び合いながら床につきました。ところが翌日から赤ちゃんの泣き声が聞こえません。次の日もその次の日も赤ちゃんの声は聞こえませんでした。不思議に思った私は母に聞きました。「赤ちゃん泣かなくなったね」母は「うん、機嫌がいいのね、でも校庭の井戸の水は使っては駄目よ、誰にも云ってはいけません」と少し強い口調でいわれ、何のことか分からぬまま、親の云うことだからと、「はい分かりました」と答えその井戸の水は使わないことにしました。
 後で聞いた話ですが、「朝鮮人の名前に変えてここに住んだらどうですか。今までのお礼に力になりますから」と云って呉れた朝鮮人がいたそうですが、母は「いいえ、私たちは日本人なのだから日本に帰ります」と答えたそうです。私たちが住んで居たところは、一日に三回ぐらい木炭バスが走っていました。日本に帰るためにはそのバスで汽車の駅まで行き、そこから釜山まで行って船に乗らなければ日本には帰れないのです。八月十五日以降バスは走っていませんでした。汽車の駅まで歩くしかありません。しかし、女子供の足で歩いていけるような距離ではなかったのです。私たちは学校で助けがくるのをじっと待っていました。
 数日後やっと迎えのトラックがきました。私たちはトラックの荷台に乗り、遠ざかる家に、二度と帰ることのない我が家に「故郷を離るる歌」を泣きながら大きな声で歌って別れを告げました。その時はじめて私は、赤ちゃんが居ない事に気がつきましたが。なぜ居ないの?と聞くことができませんでした。なぜなら、私は築山の後で首に紐をかけられていた時のことが、頭をよぎったからです。赤ん坊が泣くと隠れている場所が知られて皆んなに迷惑をかけると叔母は考えたのです。翌日から赤ちゃんの泣き声が聞こえなくなったこと、井戸を使うな、といわれたこと、母が誰にも云ってはいけないと何時になく強い口調で云ったことの意味をやっと理解することが出来たのです。でもあの状況の中での叔母の行為を誰が責めることができるでしょう。その時から私は、胸の中に絶対開けてはいけない!と大きな鍵を掛けた引き出しを作ってしまったのです。夢を見て泣いていた時、それはいつも同じ夢でした。夢のなかで軍靴の音が響きわたります。煌々と輝くお月さまが見えます。そしてなぜか赤ちゃんの泣き声が聞こえます。築山の後に隠れていた時、赤ちゃんは泣いていませんでした。なのに私の夢のなかには赤ちゃんの泣き声が必ず聞こえるのです。気がつくと私も一緒に泣いていたのです。
 マスコミで帰国子女のことが大きく報道されるようになり、肉親に逢えた喜びが語られているテレビを私は見る事ができませんでした。良かったですねと喜んであげなければと思っても、涙が出て胸の奥の引き出しがとても重くて息が出来ないほどになり、すぐテレビを消していました。
私たちは、トラックで汽車の駅がある都市まで行くことができました。しかし汽車は動いて居ませんでした。いつ動くのか分からないということで、空き家を探して汽車が動くのを待つことになりました。
 ある日突然事件が起きました。二人の叔母たちがつかみあいの喧嘩をはじめたのです。
 短く切った髪をつかんで引っ張り合い、床をころげ廻って大変な騒ぎでした。私はびっくりしてただ見ているだけでした。誰も止められませんでした。そこには姉妹愛とか、苦しみを分かちあうとか、助け合うというような人間的なものはありませんでした。どちらかが殺されるかも知れないと思った私は、怖くなって外に逃げてしまいました。
 原因は、分けられていた盃一杯の塩が無くなったことでした。その時の私たちにとって、その盃一杯の塩は、命を繋ぐための貴重なものだったのです。外に逃げていた私は、誰がとったのか知りません。

釜山で−
 ようやく汽車が動きだしました。家を出てから一ヶ月以上経って釜山につきました。一緒に降りた大部分の人達は、今は使われなくなった、釜山女学校に収容され、二階の一教室が私たちの部屋でした。食事は朝十時、夕方四時の二回で、おにぎりを一個づつ貰うだけでした。三才になったばかりの甥は、お姉ちゃまお腹空いた、といって泣きながらいつも私の傍にきました。私はおにぎりを三分の一ほど残してポケットに隠すことにしました。甥がお腹空いたと泣いて来たとき、誰にも見られないよう廊下に出て、隠していたおにぎりをたべさせました。その時の甥の嬉しそうな顔は、いまでも忘れられません。
 ある日、私たちの部屋に二・三才ぐらいの女の子と四・五才ぐらいの兄妹が加わりました。その兄妹は、北の方から来たそうで、母親が忘れ物を家に取りにいった間に汽車が出発して乗っていた幼い二人はそのまま釜山まできたのです。お兄ちゃんは優しく妹の面倒をよくみていました。廊下を女の人が通ると、女の子は、お母ちゃん、お母ちゃんと泣きながら後を追いかけていました。お兄ちゃんは泣いている傍に走っていき、肩を抱いて慰め、だっこして部屋に連れ帰っていました。でも女の人が廊下を通ると又廊下に出て、泣きながら後をついて行くのです。その度にお兄ちゃんは怒ることなく、慰めながら部屋に連れ帰っていました。四・五才の男の子が懸命に妹をかばい守っているのに十一才の私は、なにもしてあげる事ができませんでした。
 突然兄妹の父親が現れました。でもその人は、戦地で負傷したのでしょうか、手も足も不自由でした。親子が会えたことは良かった事ですが、お兄ちゃんの負担はまた増えたのです。あの家族は母親に会うことができたのでしょうか。私は時々思い出しますが、どうする事もできません。名前も知らないのですから。
 私たちは、なかなかこない、船に乗る順番を待っていました。やっと順番がきて船に乗る日の朝、おにぎりを二個づつ貰いました。四時のおにぎりは好きなだけ持って行きなさいと云われ、両手に持てるだけ貰ったのです。船は夜出航するとのことで、久しぶりにお腹いっぱいにおにぎりを食べることが出来ました。船に乗り夜の朝鮮に別れを告げました。皆んな大きなこえで泣きながら「サヨウナラ」と叫んでいました。
 朝方、甲板が何やら騒がしくなっていました。まだ、薄暗い海に、ボートのように小さい舟が見えました。甲板の上から男の人が、その舟に向かって、「あの港はどこだー」と大きな声で聞くと「仙崎だよー」と返事が返ってきました。甲板の上は、大騒ぎになりました。「万歳万歳」と歓呼の声があがり、知らない人同士抱き合ったり、泣きだしたり、日の丸の小旗を振ったり、「日本に着いたんだ」無事に日本に帰ってくることが出来たと皆んな大喜びでした。
 私たちが着いたのは、山口県の仙崎という、小さな漁港でした。兎に角どこであれ、日本の土を踏むことが出来たのです。
 私たち十三人は朝の内に汽車に乗り、叔母のいる九州に向かいました。叔母のいる駅に着いた時はもう深夜でした。汽車を降りた私はなんだか少し寒いなと感じました。その筈です。着のみ着のままで朝鮮の家を出た私たちは、十月半ばなのに半袖のままでした。
私たちは、無事に叔母の家に着くことができました。

あとがき
 私は、この文章を書き残すことによって、やっと私の戦後を終わらせることが出来たと思います。戦争さえなければ、私は自分の胸の奥に鍵を掛けた引き出しをつくって苦しむこともなかったのです。
 私は多くの人を死に追いやり、悲しみや苦しみを与える戦争や、その戦争を企むものを絶対に許すことは出来ません。
 この文章を書くことで、私の胸の中の引き出しは空っぽになりましたが、私にはこのことは忘れることが出来ないし、また忘れてはならないことだと、強く思っています。
  二〇〇六年五月三日

九条の会・おおさか 連絡先
〒530-0047 大阪市北区西天満3丁目12−38 八方商事第一ビル303号室
        電 話 06−6365−9005 FAX 06−6365−9006

        メール osaka9@infoseek.jp

                       
                           ホームページへ